疫隈國社 素盞嗚神社(てんのうさん)

市指定重要文化財

素盞嗚神社(巨旦将来屋敷跡)

この素盞嗚神社は、備後風土記に見られる蘇民将来伝説の舞台となる神話に彩られた由緒正しい古社です。
社伝によれば679年の創建したとされ、後に遣唐使であった吉備真備が天平6年 (734年)に素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請し、さらに貞観11年(869年)、広峯神社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)勧請されたとされています。


ところで、皆さんは蘇民将来伝説をご存知でしょうか?
スサノオが出雲から南海(鞆の浦と思われる)旅をするお話です。

旅の途中で宿を求めた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなしました。
旅の帰り道に再び寄った武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、八つ裂きにして滅ぼしました。
そこでスサノオと正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば、我の災いを避けることができると教えたとされています。

出雲より鞆の浦を目指した際ルートとしては諸説ありますが、一説によると、備後に入ると神石から神谷川を下りその際に左手側に見えるのが、「蛇円山」です。
蛇が円を描いた山、蛇円山。
ヤワタノ大蛇ゆかりとも言われています。
そして、神谷川が芦田川と合流する地に鎮座するのが、この素盞嗚神社になります。
神谷川と芦田川、茅の輪の茅と言えば芦の事ですよね。
何とも、スサノオの神話に関連した、固有名詞が続きます。
素盞嗚神社から山を越え、そのまま南下した場所の地名が神村です。
この説によれば、そこから東に進路を変え、船に乗って鞆の浦を目指したということです。
その船に乗った場所が神島ではないかと言われています。
神島と言えば、日本のポンペイとも言われる草戸千軒遺跡の草戸町のすぐ北側になります。
スサノオルートの地名を聞いただけで、皆さんワクワクすると思います。
最後に素盞嗚神社は、巨旦将来屋敷跡に鎮座していると伝えられています。
巨旦将来はスサノオに八つ裂きにされた後、その恨みから金神という疫病神となりったということです。


拝殿




本殿


福山藩初代藩主の水野勝成の造営で、檜皮葺きの入母屋造り、破風が大きく中心で直交しているのが特徴です。
千木が各方面にそれぞれ配置されています。


相方城山門



素盞嗚神社北側の県道に面してある山門2棟が相方城の山門と伝えられています。
東門は16世紀末から17世紀ころの建物と推定され、3間で切妻屋根をもつ薬医門で全く装飾がない実戦仕様となっています。
現存する城門としては、最も古い物になると思われます。
西門は、4本の柱があり、側面は壁が塗られているので一重の櫓門のようです。




祇園祭
現在では、京都の祇園祭をはじめ、博多祇園山笠など日本全国に広がっている祇園祭。
その祇園祭の発祥が、こちらの素盞嗚神社となります。
元々祇園祭は、疫病神であるスサノオを鎮めきれず、町中から退去頂くるために行われていた祭りです。
7月と言えば、湿気が多くジメジメし流行り病や食中毒が多い時期です。
医療が発達していない当時は疫病神が悪さをして、お祀りしているだけでは鎮めきれないと考え、町中からスサノオに出て行ってもらうために行いました。
町を神輿で巡りスサノオの分霊をすべて集め、御旅所に引っ越して頂くのです。
そのため御旅所は、民家の全くない山頂に鎮座する場所にあり、現在では新市神社となっています。
御旅所では、今でも夜通し備後神楽が舞われスサノオが、退屈になって再び町に舞い戻らないようにもてなしているのです。

また、京都や福岡では祇園祭の最中に、きゅうりを食べないとなっていますが、実は祇園祭発祥の地「新市」では必ずきゅうりを食べます。
こちらでは、祇園祭になるとタコときゅうりを酢で和えたものが食卓に並びます。
祇園祭になるときゅうりがスーパーから無くなるほどです。
きゅうりは水分が非常に多く体温を下げる効果があるため、夏に食するのが自然な食品です。

伝わる話では、スサノオがきゅうりを取りに畑に入ったところ、竹垣が目に刺さり嫌いになったと言われています。
悪さをするスサノオの分霊を神輿に乗せてお連れするのに、自分に厄病を降りかからないようにキュウリを食べ、厄払いとしたのです。


現在の素盞嗚神社の祇園祭は、喧嘩神輿で有名となっっており神輿のぶつかるゴーン!といった音が響く勇壮な祭りとして大勢の参拝客で賑わってます。

基本情報

所在地
〒729-3101 広島県福山市新市町戸手1−1
電話番号 0847-51-2958
営業時間
料金
アクセス JR福塩線 上戸手駅下車2分
駐車場 あり
備考
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