網引公碑と至孝堂
「続日本記」に、「神護景雲2年(768)2月壬辰、備後国葦田郡網引公金村 年八歳にして父を喪ひ. 哀毀して骨立す。
尋ぎて母艱に丁りて、追遠すること益深し、爵二級を賜ふ。その田租を復すこと終身。」といった記述があります。
この網引公の故事に感銘を受けた宮内村の庄屋林吉助は、下安井の神谷川左岸に一舎を建てて、福山藩儒の衣川閑斎を招いて庶民に孝道を広めました。
今は、至孝堂跡地に建築物はありませんが、網引公碑が建てられ、祠が祀られています。
以下は現在も、新市町に昔話として残っている網引公のお話しです。
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奈良時代の昔、今の網引地区あたりに金村(かなむら)という男の子がいた。
小さいころから親孝行で近所で評判だった。
父親は地方の役所で食事などを作る大膳(ぜん)職だったが、病に倒れてしまう。
金村が8歳の時である。金村は病床の父親に代わって公務をこなし、ますます孝行息子として評判が広まる。
ある日、近くの山に木を切りに行くと、いいにおいのする水がわいている所に出た。
「父上や母上に飲ませよう」と金村は水をくんで持ち帰った。
水は山の神からいただいた、おいしい酒で、両親は大喜び。
その話が広く伝わり、親孝行の金村は信頼を得て広大な田を持つことになり「千田さん」と呼ばれた。
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当時、網引公金村は田畑20町歩と爵二級を賜り、終身田租を免ぜられています。
これは朝廷が彼の比類なき孝心を表彰し、同様の行為を人々に期待したとの現れです。
この地は、福山市新市町網引地区となっていますが、当時、下安井村、宮内村、上安井村が合併した際に、この網引公の故事にならい網引村と命名されました。
至孝堂跡地と周辺は、地域の人により、四季それぞれの花が植えられて、綺麗に手入れをされています。
基本情報
所在地 |
〒729-3105 広島県福山市新市町下安井2283−5
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営業時間 | |
料金 | |
アクセス | |
駐車場 | なし |
備考 |