本覚大師廟塔

十八大師のひとり本覚大師は名を益信といい、備後国で誕生しました。
誕生地の近い場所には昭和8年に五輪宝塔が建立され、今も時に触れ信者の方が訪れています。



本覚大師益信僧正は真言宗を代表する僧侶で、諡号である本覚大師は空海が諡号を醍醐天皇に申請した際に、要請した諡号です。
しかし、醍醐天皇は「仏法を世に広(弘)めた大師」として弘法大師の諡号を諡られています。



その後、空海に並ぶ抜きんでた高僧として頭角を現した益信に花園天皇が本覚大師の諡号を諡られました。
本覚の「覚」は釈迦を表す言葉で、本覚思想では、「人間に本来等しく備わっている仏の悟り。」を意味します。



益信は、827年福山市新市町宮内の正仁谷と呼ばれる、現在の備後国一宮吉備津神社と櫻山城に挟まれる谷、吉備津神社裏参道の入り口のすぐ近くで生まれており、その後、正仁谷出口にある佐々木邸のある場所で育ちました。


本覚大師生家があった場所


本覚大師の育った場所


幼少期は吉備津神社本殿裏にあった輪蔵(経典などを収める洞窟のようなもの)で独学されていたと伝わっています。

実際に近年土砂崩れで埋まるまで、吉備津神社本殿裏には、人が掘った洞窟があり、吉備津神社の北の谷は輪蔵谷と呼ばれ、今でもいくつかの洞窟が残っています。


成長した益信は奈良の大安寺で出家し、元興寺、薬師寺で法相、性相を学び、後に空海の実弟真雅に師事しました。
しかし道半ばで真雅が入寂したせいもあり、次いで宗叡に師事しましたが、またもや早々に師を失うことになってしいます。



その後仁和3年(887年)に源仁が開いた東寺の金剛峰楼閣にて、阿闍梨位灌頂を授かり、900年には僧正に昇任、東寺長者法務となり、906年4月8日(旧暦3月7日)に78歳で円成寺にて入寂しました。

益信の弟子に宇多天皇がおり、益信に就いて出家し仁和寺に入ったことが知られています。
また、益信は広沢流の祖といわれ、宇多天皇の孫、寛朝が広沢池の南畔に遍照寺を建て、たことから、広沢流と呼ばれることとなりました。
また、宇多天皇は御室という僧房に住したことから、以後、仁和寺は御室と称して平安仏教を支えてることとなり、これにより東寺の権力がさらに強くなり、勢力を拡大ていきます。


御池から益信堂を見る


吉備津神社鳥居前より益信堂


現在、櫻山城の北郭櫓台跡に建つ薬師堂は益信堂とも言われ、昭和になって鉄筋コンクリート製に建て替えられていますが、江戸時代に地元の人が益信を忍んで建立されたものと伝わっています。

薬師堂のすぐ裏は、益信一族の末裔である品治家の墓所となっています。

基本情報

所在地
〒729-3104 広島県福山市新市町宮内645
電話番号
営業時間
料金
アクセス JR新市駅より1.1キロ
駐車場
備考
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